幾何学的フラストレーションを有する量子磁性体の研究

通常の磁性体では結晶格子上に局在した電子のスピンが磁気秩序を起こし、強磁性状態や反強磁性状態が実現しています。 (下図(a),(b))

これに対して図(c)のように三角形上に配置されたスピンが反強磁性的に相互作用している(つまり隣合うスピンが反平行の状態がエネルギーが低い)と、3つのスピンの向きにフラストレーションが生じます。このような系(以下、フラスレート磁性体と呼びます)に、基底状態でいかなる磁気状態が安定化するかは極めて非自明な問題で、磁性の分野では古くから研究されてきました。近年、実験で大きなブレークスルーが幾つかあり、従来の理論をくつがえすようなフラストレート磁性体の新物質が次々と発見され、新たな脚光を浴びています。

図(d)のように三角格子が周期的に並んだ系では、図に示したようにスピンが120度構造を取って フラストレーションを解消する、と理論的には理解されています。ところが最近、この理論家の常識に反して、実験測定が可能な極低温においても磁気秩序を示さない三角格子磁性体が発見されました。(図(e)) この系が何故、磁気秩序を示さないのか、また、磁気秩序を示さないこの状態は一体いかなる状態なのか、まったく新しい量子凝縮相なのか、等多くの重大な問題が提起されています。

幾何学的フラストレーションの効果で、絶対零度でも磁気秩序を示さない新しい量子基底状態が実現する可能性は、約30年前にAndersonによって提案されています。彼はs=1/2のスピンが2つペアになってスピン1重項を作り、かつ、量子的に揺らぎながら、そのペアの相手がたえず動的に組み替わり、系全体としてはスピンの自由度が消失しているような状態を考えました。(図(f)) 今日、このような状態は量子スピン液体と名付けられています。

しかし、残念なことに当初のAndersonの考察は不十分で、スピン液体の存在を理論的に確立するまでにはいたりませんでした。当時は実験的証拠もなかったのでスピン液体という概念は理論家の単なる想像物として、あまり研究者の関心をひかなくなりました。ところが上述のような最近の実験から生まれた発見によって、この問題が再び熱い注目を集めています。

この問題が難しいのは、スピン液体という概念自体が理論的基盤がほとんど無い不明瞭なものであるからです。 また、幾何学的フラストレーションを有する磁性体は理論的に扱うのが難しく、これも、このテーマの進歩が遅かった原因の一つでしょう。しかし、実験で見つかっている新物質において、従来の磁性体とは異なる何かが起こっていることは間違いなく、理論の急速な進展が待ち望まれています。上述の三角格子磁性体以外にもカゴメ格子上の量子スピン系(図(g))や、パイロクロア格子磁性体(図(h))など、スピン液体の実現の可能性が示唆されている物質が幾つかあり、その理論的理解が重要なテーマです。

量子スピン液体が物理概念として興味深い理由は、それが新しい量子基底状態の ユニバーサリティ・クラスを記述する可能性があるからです。通常の磁気秩序状態は上記の図(a),(b),(d)のようにスピンの配置パターンによって特徴づけられますが、この磁気秩序パターンというのは、スピン間の相互作用次第で、ある意味、如何様にもなり得ます。上記の3通り以外にも、もっと複雑な磁気構造も原理的には可能です。しかし、このように様々な磁気秩序パターンを追いかけるだけでは、一種の分類学のようで、普遍法則を追求する物理屋のセンスからはあまり面白くありません。 これに対して、量子スピン液体というものが存在するならば、それは個別の秩序パターンで分類されるものではなく、何らかの普遍的な性質で特徴づけられると期待されます。たとえば、これまでに知られている量子液体は、フェルミ液体にしろ、ボーズ凝縮状態にしろ、いずれも繰り込み群的に言うと安定な低エネルギー固定点であり、それぞれがユニバーサリティ・クラスを形成しています。その意味で新しいユニバーサリティ・クラスとしての可能性をスピン液体という概念は有しています。スピン液体状態は、単にスピンがランダムに向いて揺らいでいるだけで何もない"のっぺらぼう"のような状態ではなく、ある程度の短距離の磁気相関(あるいはそれ以外のもっと非自明な相関?)が発達している状態です。そのような基底状態からの低エネルギーの励起も、従来の磁性体では見られない、ユニークな特徴を有している可能性があります。今後の発展が期待できるテーマの一つです。